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エルウィン・ベルツ博士の偉大な功績

エルウィン・ベルツ博士の偉大な功績


代々木の森診療所顧問 広瀬徹也

ベルツと聞いてどんな人とすぐ分かる人は医師以外ではほとんどいないでしょう。しかし、“ベルツ水“(箱根の旅館の女中のあかぎれを見て、作ったといわれる)と聞けば「あのベルツ?」という人、草津温泉に車で行く時、近くの「道の駅」の2階にあるベルツ記念館で、その業績を見知った方もおられるでしょう。

彼は明治時代の初期に”お雇い外国人“と言われ、各分野に招聘された外国人専門家の一人で、ドイツ人内科医でした。彼は1876年日本に到着、東京帝国大学医学部の前進であった東京医学校で内科・病理学などのほか、1882年からは精神医学も担当したといいますから、日本で精神医学を教えた最初の教師となります。

このベルツの胸像は東大病院に相対して、同時代に外科学教授として貢献し、日本で没したドイツ人医師、ユリウス・スクリバ(1848~1905)の像と並んで立っています。見逃されがちの場所ですが、東大病院に行かれた折には探して、見て下さい。

東京帝国大学医学部精神病学教室の初代教授、榊 俶がドイツ留学から帰国して着任したのは1886年でしたから、それまでの4年間一人で精神医学の教鞭をとったベルツこそ、我が国の精神医学の源流だったのです(後年“狐憑き“をドイツの学会で発表しています)。

さて“お雇い外国人”は各分野で総計約2千人に上ったといわれる中で、ベルツは在日期間が合計28年間と最も長く、26年務めた東京帝国大学退任後も明治天皇をはじめ、皇族や伊藤博文ら有力者の侍医も勤めたほか、幅広い学術的功績などから、勲一等瑞宝章の叙勲をされています。この全く思いがけない最高の栄誉の受賞に歓喜したことが彼の日記から読み取れます。 

その他の“お雇い外国人”でも糸魚川・静岡ラインのフォッサ・マグナの発見で有名なナウマン、大森貝塚の発見で知られるモースら、多士済々でした。

ところでベルツは教育者や侍医などの臨床医としての活躍・功績のほかに、日本各地やアジアでの民俗学的研究でも知られ、日本人女性ハナと結婚して生まれた娘の臀部に青あざを発見して、“蒙古斑”と命名したのはよく知られています(1歳頃までに消えます)。

私がその昔、横須賀の米海軍病院でインターンをした時、患者の人種表記に、白人はcaucasian(コーカサス人)、日本人はmongolian( 蒙古人)とカルテに書かされて驚いた記憶がありますが、大相撲の力士で実感するように、日本人と蒙古人は人種的には同一なのです。

またベルツの業績として、地方病のツツガムシ病や肺ジストマの発見もあり、彼の慧眼とフットワークの良さがここからも窺えます。それらに負う、多くの日本人が恩恵を受けている功績が草津温泉の効能の発見と宣伝です。

彼は温泉が持つ健康や病気の治療効果に関心をもっていましたが、当時は東京から草津へ行くには時間がとてもかかり(伊香保温泉が限界)、辺ぴな温泉地に過ぎませんでした。ところがベルツは草津温泉が泉質はもちろん、その山の空気と水の良さで健康に非常に良いことを見出だし、紹介・宣伝したのでした。温泉日本一を決める催しで草津温泉が現在でも別府や箱根温泉と1、2位を争うのも、ベルツのおかげであることを忘れてはなりません。その功績で草津とベルツの郷里ビーティヒハイムは姉妹都市の関係を結んでいます。

彼は温泉地以外の保養地などの選定にも熱心で、葉山の御用邸を実現し、身体の弱かった東宮時代の大正天皇に特に喜ばれました。なお、海水浴場としては片瀬海岸を推挙しています。さらに病気の予防にベルツが運動を奨励したことは当時としてはまだ珍しく、評価されるべき点です。その流れで彼がドイツに柔術を広めた功績も忘れてはなりません。

彼は医学者、臨床家として優れていただけでなく、優れた教育者でもあり、多くの教え子達に深く敬愛されました。東京大学在職25年を祝う会が錦秋の小石川植物園で、数百人の教え子も参加して盛大に行われました。

また、彼が関西など地方に出かけた折には、その地域の教え子たちがすぐに集まって歓迎会をするなど、彼らに深く敬愛されていたことがよく分かります。           なお彼は日本を去る前に奨学資金などにと、大学に多額の寄付もしています。

上記の植物園やその直後の日本医学会総会に於ける彼の名演説で、“日本人は西欧の科学的成果を切り取って利用するのに長けているが、自ら科学する心を養うことこそが重要”との指摘は、現代にも通じる名言です。そして明治維新以来、短期間に目覚ましい近代化に成功した比類なき活力には称賛を惜しまなかったものの、日本の伝統を忘れ、西欧礼賛一色の当時の風潮には極めて批判的でした。また、背の低い日本人女性は、洋装より和服が似合って美しいとの持論も展開しています。

息子のトクが編集した『ベルツの日記』(岩波文庫)の下巻には、日露の開戦前の緊迫した政治情勢から、世界を驚かせた日本の大勝利までが熱っぽく記されていて、彼の政治・外交、さらには軍事面への並々ならぬ関心・能力が知らされます。そして日本が真の一等国になったことを祝福したのです。

なお、ベルツは日露戦争、日清戦争で日本の陸軍では何万という兵士が脚気で死亡したのに対して、海軍では少数に留まったことの大差は、主食が白米だけか否かの食事の相違にあると気づきながらも、なお一方で感染説も捨てきれずに迷い、兵士の脚気死撲滅に貢献できなかったことが惜しまれます。

なおこの件は海軍軍医総監で、のちの慈恵医科大学初代学長・高木兼寛の、海軍のように麦を加えず、輸送の困難等の要因から白米だけの陸軍では兵士に脚気が起こるとする栄養説が、陸軍軍医総監・森 林太郎(森 鴎外)が執着した感染説に勝って決着した論争は有名です(最終的には脚気の原因はビタミンB1欠乏と判明)。

ともあれ、1876年(明治9年)から、一時帰国を含めても1905年(明治38年)までの30年近く日本に滞在して、ほとんどその一生を日本に捧げ、貢献したベルツこそ、忘れてはならない大恩人でしょう。

(写真は筆者撮影)


2024年03月07日(木) 更新

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