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 D・キーン著『明治天皇』から
―「代々木の森・ものがたり」続編―

 D・キーン著『明治天皇』から
―「代々木の森・ものがたり」続編―


広瀬徹也(代々木の森診療所・顧問)

ドナルド・キーン著『明治天皇』全3巻(新潮社)を、「代々木の森(明治神宮)」主役として読みました。彼の全15巻からなる著作集の内の3巻が『明治天皇、上中下』という、重きの置かれようです。米兵として沖縄戦にも従軍、東日本大震災後の復興に努力する人々を見て日本に帰化し(日本名 鬼怒鳴門)、2019年96歳で没した、偉大な日本文学研究者、D.キーン氏晩年の大作です。

「あとがき」(2001年)のみがキーン氏の達者な日本語で書かれ、本文などは英語で書いたものを角地幸男氏が和訳したものです。「外国人にも読んで貰いたいから英語で」と記されていますが、和訳も大変読みやすいものです。

45年にわたる明治時代の膨大な記録『明治天皇紀』が基にあるとはいえ、そこに感情や人間性の息吹を与えて、激動の時代の出来事を明治天皇の目から見た、見事な評伝となっています。その時代に活躍した傑物について記した書物は数多くある中で、明治天皇が真に主役というのはこれだけでしょう。

ペリー来航1年前の1852年の、「祐宮(さちのみや)誕生」(上巻第2章)以降が実質的な明治天皇記となります(祐宮はのちの睦仁親王)。ペリー来航による開港問題で国中が動転する中、初めて朝廷の意向が問われ、存在感が増しました。しかし、慶応2年(1866年)の長州征討の最中に若い将軍・徳川家茂の死(20歳)、父親の孝明天皇の急死(35歳)と相次ぎ、明治天皇は14歳という若さで即位、当時の慣例に従って16歳で結婚しました。皇后は4歳上の美(はる)子(のちの昭憲皇太后)。若き天皇の教育は親友でもあった木戸孝允、そして元田永孚(ざね)より、儒教への造詣は深まったものの、他の学問への関心・熱意は今一つであったようです。ただし、両陛下とも実に多数の和歌を詠まれました。 

戊辰戦争は続いていましたが、「大政奉還」、「王政復古の大号令」、「五箇条の御誓文」などで、明治新政府は発足しました。以下の五箇条の御誓文はそれまでの時代を考えると、実に進歩的な色彩を帯び、新時代への希望に溢れたものです。

  • 広ク会議ヲ輿シ万機公論ニ決スベシ(天下の政治は世論に従え)
  • 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸(国を治める)ヲ行フベシ
  • 官武一途庶民ニ至ル迄各々其志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦ザラシメン事ヲ要ス
  • 旧来ノ陋習(悪い習慣)ヲ破リ天地ノ公道(正しい道)ニ基クベシ
  • 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基(天皇が国家を統治する基礎)ヲ振起スベシ

明治天皇は昔からの宮廷の祭祀のほか、内外の賓客の引見、閣議に臨席することや総理大臣の指名などが重要な責務となっていました。発言されることはなくとも、臨席だけで重臣達への圧力はあり、西郷隆盛らが強く主張していた征韓論には反対し、実現に至りませんでした。それが西郷の下野、さらに西南戦争と西郷の死へとつながります。天皇は元来西郷ひいきであっただけに、西南戦争中と西郷の死のあとしばらくは、普段は几帳面にされていた職務もなおざりにされたことなどから、軽いうつ状態にあったと思われます。なお、のちに勝海舟の天皇への進言で、西郷は爵位を与えられて逆賊から復権し、上野公園の有名な銅像として残る栄誉も得たのです。一方、4度も総理大臣に指名した伊藤博文への信頼は極めて厚く、暗殺の一因にもなった韓国統監も長く務めさせました。

職務への義務・責任感は強く、欠かさず行かれた軍事大演習の統監の折には、兵士の労苦を共に味わうために、質素な小屋に寝泊まりされたほどです。衣服なども継ぎ接ぎしたものを着るなど、自身については倹約・質素でした。真夏でも初期は駕籠に乗っての巡幸に堪え、別荘の利用もされなかった由です。

一方、他人には勲章、宝物、金品など多く与えられ、貧民のための医療施設の建設資金も提供されました。乗馬を好み、酒好きで、外国のワインも好み、その空き樽が明治神宮の南参道に積み上げられてあるほどです。明治時代は世界史にも残る日清戦争や日露戦争での勝利が目立ちますが、天皇自身は戦争には消極的で、勝利の喜びより、敵軍の将官への礼節を重視されたのです。

世の中を震撼させた、幸徳秋水らの大逆事件(明治天皇暗殺計画)の翌年の明治45年7月30日、59歳の明治天皇は糖尿病性の慢性腎不全による尿毒症で崩御されました。その際の外国の新聞の論評は一様に賛美の辞の中、「ザ・グローブ」紙が以下のように記しているのは出色で、的を射たものです。

「驚嘆すべき日本の進歩がどの程度まで故ミカドの個人的能力に由来し、またどの程度まで若き日のミカドを取り囲んだ政治家の知恵と先見とに帰すべきかは、西洋人が・・推測することは不可能である。しかし・・次のように言うべきではないかと思われる。・・君主たるミカドの人格というものが無かったならば、政治家たちもあそこまで仕事を遂行することはできなかったろうし、・・もっと時間がかかったに違いない・・。ミカドが備えていた資質の中に人間を見抜く能力があって、これは・・君主が持つべき資質の中で最も貴重なものである。憲法欽定に先立つ会議に欠かさず出席したことに示されるように、ミカドは国事に熱心かつ勤勉だった。また・・記憶力に優れ、肉体的、精神的ともに極めて勇気があった。またミカドは、自身の個人的安楽をまったく顧みることがなかった」。

父君である孝明天皇が酒色に耽り、外国人を毛嫌いして接見しなかったことを思うと、その相違に驚かされます。もっと長生きされていれば、その後の日本の軍国主義化が抑えられ、あの太平洋戦争も避けられたかと思わずにはおれません。ともあれ、外国人も驚嘆の目で見た明治という時代は、今後も日本史の黄金時代と位置づけて、そこから多くを学び取る必要、価値があると信じます。

墓所は明治天皇の生前の強い希望で、京都市伏見区の桃山にあります(桃山御陵)。一方、日本一の初詣数を誇る明治神宮は東京市民の熱望によって造られたことを、神宮外苑の再建案も出る、100年以上経った今こそ想起すべきです。


2023年03月06日(月) 更新

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